短冊の歴史|短冊の書き方
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短冊の歴史

今日のような形の短冊の創始者については、諸説あります。
icon 藤原(二条)為世、頓阿法師らが申し合わせてつくったという説(尭恵の和歌深秘抄)
icon 藤原定家との説(今川大雙紙)
icon 宗祗とする説(類聚名物考)
これらをはじめとして諸説錯綜していますが、和歌深秘抄説が一般的です。

頓阿(とんあ)(1289-1372)が美濃国(岐阜県)の不破の関の関屋の板庇(いたびさし)に和歌を書いて、二条為世(にじょうためよ)(1251-1338)に贈り、板庇のおおきさによって短冊の大きさを決めたとのことです。そして、短冊は頓阿がつくったとか、頓阿が為世と相談してつくったとかいわれています。

深秘抄には、
「短冊の事、為世卿頓阿申合候哉、長さ一尺にて候、只今入見参候、此題岸柳、為世卿自筆にて候、裏書は頓阿、重而子細は尭孝筆跡にて候」
云々とあります。

頓阿は中世和歌四天王の筆頭とよばれる僧で、この人の短冊は相当伝わっているらしいです。

二条為世は、藤原定家の曾孫で、(二条は本姓)、二条家の歌学をまもり、新後撰集、続千載集などを勅撰しています。

短冊というのは、懐紙を縦に8等分したものといわれています。
色紙短冊」と呼びますが、色紙は短冊よりはやく生まれています。

短冊は色紙に遅れること、150年の弟分です。色紙の寸法を定めてこれを完成させたのは、藤原定家とされています。定家は鎌倉時代初期の歌人です。その曾孫の為世がこんどは短冊をつくりました。これは鎌倉末期で、この間が約150年です。

懐紙を十文字に4等分したのが色紙で、短冊は縦に8等分したものといわれています。

懐紙は平安朝のころにはすでに存在していて、これが色紙と短冊の母体になっている、と一般に考えられています。

漢詩をつくる作文会(さくもんえ)、和歌をつくる和歌会(わかかい)の漢詩や和歌は、懐紙(一枚の大きな紙)に書いていました。漢詩や和歌を書く懐紙には檀紙(だんし=楮紙(ちょし)のなかで最も精良な紙)杉原(すいはら、檀紙より小さくて薄い紙)を用いました。

鎌倉時代の中頃には、「晴」には懐紙を用いましたが、「け」(普段)には短冊を用いるようになりました。紙の節約を考えるようになったのでしょうか。

短冊は杉原を縦に8等分したものです。
打曇(うちぐもり)を切って短冊をつくることもありました。


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